2013/11/13

変化について〜その主体と今後の未来〜



社会は基本的にマトリックスである。マトリックスから脱出したなら、自由のためにたたかえ」〜アレックス・ジョーンズ、AlexJonesShow201310月吉日放送分より

人類の有史を振り返ってみると、今日に至るまで一貫した共通性があることがわかる。
(注:もちろんこれから述べるその共通性は、「一般的に、全般的に見て、」という範疇においての私なりの分析の結論である。であるから、細部を見れば例外となる事例も当然ある。)
つまり、世界は少数者により常に運営・統治されて来たという共通点だ。多数派であるところの人類一般は常に寡頭制により無自覚に支配されてきたというのが私見である。テレビやラジオといった大衆媒介(=マス・メディア)が登場した20世紀からは、民主主義という仮面をかぶった科学的独裁が各国を運営してきた統治形態であり続け、そして今もなお、それは継続している。
歴史を形成してきたのは市井(しせい)の人々ではなく少数の人々である。少数の人々=エリートと捉えても構わないと思うが、エリートという表現でどのような属性の人々を指すのかがいまいちピンと来ない。十人十色な連想パターンがある。つまり、意味論の議論になる。俗にいう抽象度の問題でもある。具体的にエリートとはどのような人々かと言えば、次のような線形自由連想で極限を求めることが出来よう。

エリート→グローバルエリート→ピラミッドの上位→少数→144人→13人→M1→総称して世界管理チーム

つまり私にとってのエリートとは世界管理チーム(=カバル、でもよい)のことだ。彼ら彼女らが世界を仕切ってきたし歴史を作ってきたのだ。日本では、歴史を動かすほどの逸材は、忍びの世界で「上忍」と呼ばれている。が、それは日本国内においての話だ。世界規模で世界史の運営主体を見るとやはり、世界管理チームであろう、とこうなる。ヘーゲリアン(=ヘーゲル学派)あたりは「歴史とは絶対精神が自由を求めて発露する自らの諸形態」だなどとのたまうのだろう。
私たち(旧西側諸国に属する「自由な」国、資本主義国、OECD諸国→日本も含めて)が形式上享受しているところの民主主義というのは、実際にはなんらかの形の独裁(=特に世界管理チームが表現するところの科学的独裁)という形態である。民主主義のその純粋な形式・機能を果たして各国は果たしているだろうか。各国の社会的/政治的/経済的/つまり社会経済的/な意思決定は市民/民衆/大衆/したがって国民一般/には属さず、むしろ一握りの集団すなわち:政治家、官僚、既得権益、特別利害関係者、特定企業群れ、外国工作員=諜報機関、暴力団=マフィア、ネオナチetc. こうした集団に属している。大衆はマトリックスの住人であり、たしかに目覚めてきている人々もいることは事実だが、歴史を動かす主体ではないしかつて一度もそうではなかった。

本稿の要旨はこの「歴史を動かす主体」についてである。

私たち大衆は支配/管理の対象である。世界管理チーム、あるいは一国において力を持つ上に立つ者たち(=いわゆるお上(おかみ))は大衆の覚醒と大衆主体の社会運動、民意を一国内の意思決定に反映させることを強制するような力・影響力・組織力を大衆に実践されては困るのである。お上は支配狂の集団であるお上は支配狂の集団であるお上は支配狂の集団である日本においてお上は外国の奴隷である。また限りなく利己的・保身的である。故に、社会は本質的には前進・進歩しない。
経済は永続的な経済成長(=名目GDPで算出)を前提としなければ成り立たない。そこに持続可能性、地球のキャパシティ(=収容・包容力)への考慮は無い。社会主義的な発想で言えば、生産・配分・消費について資本主義諸国ではこれらは無秩序である。そこに理性による運営は見られない。
この地球には使い古されてスクラップになるのを待っている中古自動車が1億〜2億台存在している。これはドキュメンタリー映画「HOME」からの情報である。欧州では毎日数十トンものパンが破棄されている。日本では毎日コンビニ弁当やコンビニのおむすびが数えきれないほど廃棄処分されている。大衆に問題意識は無く彼ら彼女らは生存闘争で必死であり、日々の生活を維持するために働き詰めの境遇を余儀なくされている。したがって自由にじっくりと深く事物について沈思黙考する「隙を与えられていない(!)。
大衆は娯楽にふけり、未来社会を夢想せず、惰性で生き、消費活動にふけって自己満足に浸る。大衆は決して団結する事はなくバラバラで、つまり社会学の術語を借りるのであれば「アトム化」されており、TV報道を鵜呑みにし、またそれに従い、まるでヒツジ人間(=アメリカではシープルsheepleと表現される)のような生活を送っている。そしてかつて世界に跋扈した(→古代ギリシアの都市国家の時代や日本では弥生時代にまでさかのぼれるわけだが)奴隷制度は現代においてはさらに高度化し、ステルス化し、緻密になっている。統治体制は相変わらずバビロニア・エジプト文明より脈々とそのヒエラルキー的な様相を呈しており、さらにはこうしたピラミッド型ヒエラルキー社会構造では各成員はCIAが表現するところの「区画化」が敷かれており、成員は他の成員・組織・機構が何をやっていて、そして社会全体の大きな鳥瞰図(=大局)はどのようなものなのか決して把握できないようになっている。社会学ではピラミッド型ヒエラルキー社会構造のことを「垂直的集団主義」と表現しているらしい。(この術語は本稿末尾に埋め込んだ英語動画に紹介されているのでご参照願いたい)

大衆はいつの時代も権力者・エリートらに飼われ、調教され、盲目にされ、悪導されて来た。現在はもはや魚座の時代ではなく水瓶座の時代であるにもかかわらず、大衆の状態は相も変わらぬものである。

プロレタリアートの武器は組織力である。組織化されていないプロレタリアートは無である」〜ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフ通称レーニン

ではどうすればいいのか?精神世界の議論では、これからの時代は「天・地・人」の共同創造である、というような表現がなされているが、私もそれに同感である。が、しかし。大衆に一瞥(いちべつ)をくれてみよ。B層などと覚醒層から揶揄されているではないか。日本は紛う(マゴう)ことなき「神の国」であるが、その神の国の住人達は一体何をしているのか?国や地域共同体の運営に参加するどころか、受動的で、消極的である。もとをたどれば戦後GHQによる対日心理戦争=戦後占領政策による対日本人骨抜き大作戦に責を帰すものであるが、それにしても日本国民(=世界の盟主!)の現状は哀しいなあ(泣)、の一言に尽きる。本段落では問題解決とその手法について述べる段落なので閑話休題としよう。少し情熱的に書き綴ってしまった(微笑)。吾人思うに、それには大衆の組織化、連帯、積極的意思表示・示威行為、革命とは言わず変化への機運を盛り上げるためのなにか契機(=モメント)が必要である。

個人が立つべき視点はマクロとミクロの両方である。
マクロ=巨視的、とはこの文脈上では世界的潮流や時運、時勢、大きな流れといったものを俯瞰(ふかん)することである。
ミクロ=微視的、とは百匹目の猿現象を日本と世界にもたらすための原因作りのことである。
つまり、個人レベルで手頃に真っ先に実行可能な諸々(もろもろ)の行為について俯瞰することである。両者を総合した上で新しい時代を作り出して行くのである。では実際問題として、様々な属性/イデオロギーで分断されている私たちが執れる行為とはなんだろう?そのためのヒントがある。動画で埋め込んでおく。英語の動画だ。よく参考にしてほしい。

なんかこう、踏ん切りの悪い終わり方になるが、言いたいことは一応大体述べたので本稿を結ぶことにする。

記事を投稿する頻度をなるべく高くしていくつもりだ。期待値ゼロで待っていてほしい(爆笑)

自由に生きよ、行け、そして人生を創造せよ、日本の大衆よ、世界を導け!






http://www.youtube.com/watch?v=8Zq4f6WYmHU

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