2013/11/13

国家〜その役割と均衡的機能〜

「...こうして高貴な意識は、判断において自分が国家権力と対立する位置にあるのを感じる。国家権力は意識そのもののあらわれではなく、さしあたり共同体秩序であって...国家権力をそのように肯定する高貴な意識は、自分独自の目的や、自分の特殊な内容や生活には否定的な目を向けざるをえず、それに重きを置くことはない。そこにあるのは"奉仕"の英雄主義であって、全体のために個を犠牲にし、もって共同体を実のあるものとする徳行と、所得や満足をみずから断念し、現存権力の為に行動し、力を尽くす人格がその典型をなす。」

〜ヘーゲル著「精神現象学」より

上記にあるように国家とは共同体秩序であるとの認識を私も下している。国家と個人・共同体は、不可分な信頼関係と重層的な相互扶助関係を前提とすることにより、国家とその成員、すなわち主権者である国民の将来にわたる繁栄の礎を築く地盤となるのである。国家は決して私企業のようにその成員を搾取するようなことがあってはならない。それは国家の未来を担保する上で国家・個人間の信頼関係を壊してしまうことになりかねないからだ。

私企業においてその成員に対する搾取とは、成員=社員の時間と心の平和の搾取を指す。つまり、具体的に言えば、長時間労働(昨今ではブラック企業が悪名高い)を強いることが成員の自由な時間の搾取である。また、上意下達の社風や数値目標の達成を強いることによる過度のストレスを成員に押しつけることが心の平和の搾取である。
国家によるその成員=個人・市民・国民に対する搾取とは(重たい)課税がまず経済的搾取であり、また、網羅的に支配網として張り巡らされている法律網が個人に行動制約を強いることとなるので、これが個人の自由意志の搾取であり第二点目の大きな搾取様式である。

基本的に日本では上記にあるような、二分できる搾取体系が存在している。憲法は国家の行動規定・債務規定であるが、法律は経済主体の行動規定・債務規定である。

本稿の要旨は「国家が採るべき個人・共同体への態度」について述べることである。

上記にあるように、国家と個人・共同体の信頼関係構築は、国家の未来運営にとって必須であるが、現状は信頼関係などほとんど成立していない。
面白いデータがあるので紹介したい。政治家への信頼と政治家は有能か?という二つの要素をグラフ化したOECDが提出したデータがそれである。

リンクURL:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5212.html

一目瞭然なのだが、日本は最下位の部類に入る。由々しき事態ではないだろうか?

解決策となる一つの美学を提示してみたい。
国家は能力主義的民主主義という形態をとり、また個人の潜在能力を最大限実現できるような機会とプラットフォームを「無償で」提供することである。ちょうど日本には機会均等法なるものがある。これに則って個人の機会の平等を絶対的に保証し、そして提供するのが、能力主義的民主主義を形成する上での大事な前提条件である。

具体的には:
1.教育にはお金が必要のないようにする。つまり日本国の子女の教育にかかるコストを無償化する
2.一国の最大の資源は人財であるという観点から、教育を第一義的に捉え、日本国の全ての子女に叡智教育を無償でほどこす。
3.子女らが長い学生生活を終え社会に出る頃には、彼ら彼女らが社会の成員の間で最もスマートな状態であるようにして社会に送り出す。これにより職能的・知的・感情的・身体的・霊的に超人(スーパーマン、ユーバーメンシュ)となったあらたな世代が我が国に量産されるのだ。

次に能力主義的民主主義について。
民主主義という仮面をかぶった現状の科学的独裁は次のようにたとえることが出来る:
少数の少数による少数のための政治。
かたや能力主義的民主主義は次のようなたとえが出来る:
人民の、真に全能に近い才気・理智ある利他的な少数による、公共善・全体のための政治。

能力主義的民主主義は透明なピラミッド型統治形態を採る。誰でもトップに能力次第で辿り着くことができ、またトップ、ないし上位者へのアクセスも常時可能である。区画化は過去の遺物として未来の歴史家の研究対象となるだけである。

教育と自由が大切である。教育と自由が大切である。教育と自由が大切である。

以上、荒々しく大掴みに述べてみた。能力主義的民主主義に関心のある方は下記のウェブサイトを熟読してみると良い。
http://www.meritocracyparty.org

自由に、愛と光を心に抱いて生きよう。行こう、そして人生の創造主となろう。日本人よ、世界の盟主よ、時間はたっぷりある、ゆっくりと気長にやって行こう^^

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