2015/05/04

宇宙のライフサイクル part 1

The life cycle of the universe

出典:http://www.mathmonism.com/thelifecycleoftheuniverse.html


事物・物事にとっての自然なライフライクルとは、誕生し、成長し成熟し、年を取り(古くなって行き)衰弱し、そして最終的に死ぬことです。宇宙 ―生きる器官としての―も他のすべてと同じくこのサイクルに従っています。物質的な宇宙は死ぬ運命にあり必滅です。死ぬことのない宇宙、それがメンタルな宇宙です。ちょうど私たちの内奥にあるメンタルな側面―すなわち魂―が不滅であるのと同じように。

ですので、死ぬことのない宇宙的なマインドと死ぬ運命にある物質的な宇宙は必然的に宇宙はサイクル(複数形)を経由して先立つものである、ということを意味します。  それぞれのサイクルのパターンは全く同じなのですが、精密で寸分違わない出来事(複数形)は決して全く繰り返されることはありません。

人間の人生/生活はユニークなものです。ですが人間すべての人生/生命は規定された特定的なパターンと同様になるのです。大抵の人間の人生/生活は大なり小なり同じ行程で生きられるものです。精密な詳細は様々でありそれぞれ一定の順序に従って進みます。ですが一般的なテンプレートではありません。

宇宙の次の時代においては「新しい地球」となんらかの「新しい人類」が存在しているでしょう。もう一人のシェイクスピアやレオナルド(・ダヴィンチ)、カフカやニーチェ、あるいはピタゴラスライプニッツが登場する/存在することはないでしょう。ですが、そこには別の名前の新しい天才たちが登場するでしょう。自らの足跡を残すような天才たちが。

存在の周期的な性質のおかげで、私たちはサイクルの中でとある点(ポイント)―物理的な概念と同じ意味で―を選ぶことができるのです、全体のプロセスがどのような仕組みになっているのかを確かめるために。

第一に、発端・概念に先行する周囲の状況を検討しなければなりません。  もし物質的宇宙の発端がビッグバンだとするなら、主流科学が関わることを拒否する疑問を検討しなければなりません。つまり、その根本的な出来事の前にはなにが存在していてたのか。そしてその先行していた状況がいかにしてビッグバンを誕生させたのか、という疑問です。何が存在していてどこで存在していたのか、そしてどのような周囲の状況で存在していたのか、と。

存在の基本的な単位は数学的な点です。その点には無限の数が存在しています。数学的点は次元を持ちません。物理的な空間を占めることもありません。物理的な時間のなかに存在しているのでもないのです。数学的点の無限は同一の点を全て占めることができます:(これが)存在論的シンギュラリティです。「創始の点」です。「自身の中にいる神」なのです。

ここで扱っているのはメンタルな領域であって物質的・物理的領域ではありません。つまり、メンタルというのは第一義的な領域でありそこから物質的領域が現れるのです。存在とは物質が充満した空間(plenum)です。全てをカバーしています。非存在なゾーンはどこにもありません。しかしながら物質的宇宙が不在であることから ― それはつまりメンタル宇宙の潜在性であって独自に独立したものとしてあるいは自立したエンティティ(存在)として存在しうるものではありません ― 実存的なplenumはメンタル領域にのみ適用されるのです。メンタル領域のすべての部分は充満していて、これが意味するところは無限のマインドが(そこには)存在しているということです。数学的点はそれぞれ無限のメンタルな能力・容量を含んでいます ― マインドのplenum状態です ― そしてこれらマインド全てはシンギュラリティに属しています。つまり一つの無次元な点です。

もちろんのことですが、シンギュラリティとは物理的存在との関連で言われるところのそれでありメンタルな存在との関連で言われるものではありません。メンタル領域の範囲で言えば、それは無限に拡げることができます。それはどこにでも存在しています。全てを埋め尽くします。全てを抱擁しています。無限のメンタルな「空間(space)」を経験します。無限のメンタルな「時間」も体験します。時間をその物理的概念から取り除いてやると一体時間とはなんでしょうか?連続・連続物です。一つの思考・考えが別のそれに先行し、一つの思考が別のそれに継続するのであれば、一連の流れとしての思考(複数形)の順序をつくり上げることになります。つまり思考のチェーンです。一つの考えがより前の考えから流れてきてメンタルな時間を構成するのはこのチェーン、思考の流れなのです。メンタルな時間がなければすべての考え・思考は同一の点上で永遠に固まってしまうでしょう。

存在は永続的な成(becoming)です。したがって時間は存在に内在されています。成と時間は同じものです。つまり一つの出来事が別のそれから永遠に流れてくるものであり、すべては他の全てへと流れて行きこの流れはメンタル空間とメンタル時間という範疇で測定することができます。メンタル空間と時間、そして物理的な空間と時間の鍵となる違いは物理的な多様性は規則的で測定可能な単位(ユニット;複数形)に分割でき、一方でメンタル空間と時間は分割できない、という違いです。

こうした考え方と最も関連している哲学者はアンリ・ベルクソン(Henri Bergson)です。彼によれば知性は空間に関連付けるが、直観は時間に関連付ける、と。その一方で科学は空間と時間をとても類似しているものとして扱います。全然類似していない、というのがベルクソンの議論です。彼にとって時間を分析する上での中心的な問題は、それ(時間)が空間の側面としてみなされていることと、同じようなものさしでアプローチされていることだとしています。

科学は、静止フレームで構成された映画用のリールに現実を変換してしまいます。継続的なモーションは本質的には幻想で、複数ある静止フレームを一色単に適当なスピードで作動させることで引き起こされるものでしかありません。現実はしたがって凍った、生命なき状態の連続以外でしかないのです。映画のフィルムに含まれた生命はどこにあるのでしょうか?写真のどこに生命があるでしょうか?写真とは生活・人生の固まった一瞬を捉えるものであり、生活・人生そのものをとらえるのではありません。

科学的時間とは ― ベルクソンによれば ― 空間の形式・形であって、一方では本当の生きた時間とは「継続」です。「純粋な継続とは、意識状態が、エゴを生きさせるときに推測するところの形式である。つまり、前の状態から現在の状態を切り離すことを控えるときに推測するところのものである。」


自身の内的な経験のみに集中するとき私たちは純粋な継続を認識します。物理的なというより心理的な時間の体験というふうに呼べるかもしれません。それについて考える簡単な方法は、夢の時間を考慮したり、幻覚誘発薬を飲むときに過ぎ去るであろう時間を考えてみることです。あなたの注意、焦点は時間の経過を取り仕切ります。時計が取り仕切るのではありません。

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