2015/07/12

宇宙のライフサイクル part 2(完結編)



part 1はこちら → http://neuerkosmos.blogspot.jp/2015/05/part-1.html
http://mathmonism.com/thelifecycleoftheuniverse.html

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訳注:
本文が非常に長く、完了するまでに2ヶ月かかってしまいました。途中で気力が潰えてしまい、後半30%は省略しています。今度からは適量の記事を選ぶようにします。


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(…) 人は夢の中で不特定の時間にわたって花を見つめることができます。そこには、機械的に測定された時間の経過はなくそのような感覚はありません。本当の時間はですから、心理のなかにアンカーされているのです。物理的なもののなかにではありません。

メンタルな時間はそれゆえ、ベルクソンがとらえた通りなのです。時計刻みの時間ではないのです。そもそも時計などないのですから。チクタクと刻むような物理的な存在はありません。そうであるにもかかわらず、それでも時間は経過します。今や時間は、あなたの注意が向くところによって計られます。つまり、心を集中している状態によって、です。空間も、物差しによって数えられるものではありません。夢の中でのように、距離は特定の時間においてあなたの心がそうあってほしいと思う心次第なのです。重要なのは、空間と時間は、メンタルな領域にまさに存在しているということ。だが物理的な領域における空間と時間とはまた別である、ということです。

夢という経験で私たちは異なることについてのアイデアを得るのです。無限のエネルギーの可能性を持った無限のマインドが物理的宇宙の創造に先立って存在していて、実存的な充満の状態を形成していたのです。これらの無限のマインドが無限のメンタルな空間を占めていたのです(それは物理宇宙との関係でいうと観測不可能なシンギュラリティであります)。そしてメンタルな時間の経過を体験していたのです。物理空間はメンタル空間に起源をもち、物理時間はメンタル時間に起源をもちます。ですが、よりベーシックな数学的起源を特定することができます。空間は実数に、そして時間は虚数に基礎付けられているのです。人間の心とは違い、宇宙の心は実虚数共に同等の重要さを持つものとして扱います。宇宙の心は数学的なマインドであり、それは数学的実体を私たちがするのとは違ったやり方で加工します。人間の心は考えます。「これはそもそも物理的な意味合いを持つものだろうか」と。答えがいいえ、である時にはその実体は棄却されます。負の数字はこれまで人間の頭脳を悩ませてきました。ちょうどゼロと同じように。あるいは無限や虚数と同じように。人間は同じ問題に苦しんでいたのです。つまり、人間の頭脳はこれらの数を物理的現実性の枠内で解釈することができないのです。科学的唯物論は、ゼロ以上無限未満の実数を扱うことに終始しています。虚数が物理学においては現存するのにそれは器官としての意味合いで理解されています。つまり、それは正しい答えを与えているのに科学者は誰もそれに物理的現実を帰属させないのです。微積分学の初期においては、形式主義はゼロをゼロで割ることに終始していました。これは数学的に一貫性のないこころみだったのです。ライプニッツ版であれニュートン版であれ、微積分学は正しい答えを与えたのだが、とても疑わしい理論的土台に立脚していたのです。バークリー主教は率先して嘲ったものでした。「もし幕を持ち上げて下をみれば...我らはそこに大いなる空隙を発見するだろう。暗闇と困惑を。否、もし私が間違っていなければ、直接的不可能と矛盾をそれらは有限量ではなく、また無限小に小さい量でもない。それでもまた無でもない。それらを逝去した量の幽霊だと言えないものだろうか?」

人間の頭脳は何が「リアル」かに執着しています。そしてその他のものは全て非現実なのです。ですので、ゼロや無限、負の数と虚数は全て非現実なものとしてみなされます。イルミニズムと科学的唯物論との違い。それは、イルミニズムは科学的唯物論が非現実的として定義する全ての数を存在論的にリアルだと見なしている、という点です。かようにシンプルなのです。マインド、すわわち心を可能な限りいかなる偏見や埋め込み済みのバイアスから自由なものとしてライプニッツは見なそうとしました。人間の頭脳・心は生来的に欠陥があり、考慮すべき心とは数学者のそれである、と彼は決めたのでした。宇宙的な数学者。感情やバイアスから完全に解き放たれていて完全に合理的理性的で論理的な数学的神。この神が負や虚数そしてゼロと無限をどのように作りあげたでしょうか。それらを完璧に理解する完全なる数学者として、彼はゼロ以上無限未満の実数に劣る現実性をもつものとしてそれらをみなすだろうか?虚数よりも実数を、負の数よりも正の数、ゼロでない数や無限以下の数を優れたものとして彼が好むのであれば、彼の充足理由は一体なんなのでしょうか。充足理由がもし存在しないのであれば、これらの数は全て平等な脚注上で扱われるべきものです。イルミニズムは数学的に定義するのであれば、「実」数よりも「複素の」数の上に現実が基礎付けられている体系(システム)として定義できます。複素数にはa+biという形式があります。"a"は複素数の実数成分としてあり、"bi"は虚数部分です。現実は実数というよりも複素数に関連付けられていると述べることは、虚数は実数と同量に存在論的にリアルだと証言することです。現実問題として、イルミニズムはまず「全ての」数は存在論的にリアルなものとして開始します。正確を期すると:ゼロ、無限、全ての字数と負の複素数は現実的な存在を有する、ということです。これはイルミニズムを科学的唯物論から隔てる根源的な差異であり、科学的唯物論が言わんとしていることは、実数のみがゼロよりも大きく、無限よりも小さいものは実存的重要性を持つということです。つまり、他の数は全て非現実なものである、ということです。科学的唯物論にとってこうした見解以外に充足理由はなく、彼らが取り扱う数以外の数の現実は捉えることができないのです。かれらは人間の頭脳を中心的基準に据えて、何が存在して何が存在しないかをその尺度で考えます。かれらは、科学者の偏見に現実は順応しないとダメだと主張します。これが科学を信念体系にすることであって、科学を科学たらしめないことなのです。虚数が科学と工学の等式の中において普及しているという事実を踏まえて、虚数は存在論的に非現実であると結論づけるとは一体何事なのでしょうか。なんらかの物理的重要性がないのなら、虚数はこれらの等式の中で一体何をしているというのでしょうか。それらがそこにある、という事実。これはそれらが非現実ではないと結論づけるのに十分な理由なのです。間違いやすい人間の頭脳や騙されやすい人間の感覚ではなくて数学に現実を決定してもらいましょう。科学の唯物論的なバックグランドを持ったイルミニストが痛烈に科学的唯物論に敵対したのはなぜでしょうか。合理的な人々がキリスト教からも離れたのは同じ理由からでした。つまり、「真実」です。科学的唯物論は狂信的なイデオロギーにして信念体系です。至上の善として真実の追求を宣伝するのだが、唯物的なパラダイムと矛盾することがあればなんであれ拒むのです。教条的に。人間の感覚から、そして人間の思考様式から宗教を作り出すこと。それが科学的唯物論の実態です。科学は、証拠の不在を不在の証拠である、とします。科学の知識や設備で検出できないものは全て存在しない、と科学は言い切ります。つまり、「感覚的に」人間に覚知される<現実>に接触してこない限りは存在しないのです。感覚的データが現実として優遇されることについての十分理由はあるのでしょうか。さらに、感覚的データは物質的な現実を実際に反映しているのでしょうか。ここで再び、赤という色についての質問に回帰できます。それは物質的には存在していません。いわば心的な知覚・認知なのです。物質的な現実性をそれは全く持たないのです。科学的唯物論はどうやってそれを説明できるでしょうか。
数学、つまり暗闇のなかで防音の効いた部屋で外部からの感覚的インプットのない状態でたった一人で実行される純粋思考の領域である数学において、数学という手段で現実にアプローチすることが最善であるとイルミニズムは主張します。そのような思考においては、純粋に抽象的な思考は現実から切断されているでしょうか。それとも、現実は根本的にそして究極的には物理的ではなく心的なのであるから、それは現実への最も純粋な関わり方なのでしょうか。科学的唯物論は好んで数学を道具として用いますが、それを現実的なものとしては扱いません。それなのにどうして数学が現実を果たして反映できるでしょう、現実がそれ自体数学的ではない場合に。私たち自身がなんらかにおいて数学表現の一つではない限り、ことごとく数学的であるこの現実をどうして私たちは理解できるでしょうか。物理学ではなく数学が現実を定義するのであれば、実験データと知覚可能な証拠から解放されます。言い換えるなら、人間の制約から解放されるのです。物理学はanthropic - 人間が中心 - という観点から現実理解を進めます。なぜなら人間の感覚を中心的な土俵として位置づけるからです。物理学が依拠する「観察」は生来的に人間の感覚に頼っています。でもなぜ現実がanthropicでなければならないのか。これはほぼアブラハム的な立脚です。
十分数学的ではないので、また極端に人間中心的なので、そしてまた経験主義を合理性の上にまで持ち上げてしまったので、イルミナティは科学的唯物論を拒絶しました。現実理解のためには現実の鍵となる材料を特定しなければなりません。その鍵となる材料は人間の感覚でしょうか。それとも数学でしょうか。前者がそうであるならば、現実は人間の感覚にとって明らかになるものすべてがそうであり、明らかでないものはすべて存在しないのです。もし数学がそうであるならば、人間の感覚は多かれ少なかれ直接的な関連性はありません。人間の感覚は下地になっている数学的現実へのヒントを与えたりまた明らかにする手助けとなる限りにおいて利用価値があります。数学が現実であるならば、「すべての」数は現実的(存在論的)であることになります。これにはゼロや無限、虚数と負の数も含みます。ゼロが現実的であれば、科学的唯物論は反駁されることになります。ゼロが現実的であれば、マインドはリアルなのです。感覚はたんにマインドにデータを供給するという目的のために存在しているので、そういう単純な理由で感覚はマインドを検知することができません。目はすべてを見ることができますがそれ自身を見ることはできません。マインドはマインド以外の全てについての感覚的情報を集めることができます。ゼロが存在論的な現実であるとき、そのときそれによって全宇宙が説明されます。ゼロが万物の下地になっています。ゼロはまさにマインドの数学的表現なのです(デカルトによる心の定義「外延されてないもの」と共存しているマインドです)。

存在論的ゼロを科学的唯物論は拒絶します。人間の感覚が最高の重要性を持つのでそれは数学という根拠を使用しないのです。現実とはなにかをなぜ人間の感覚が支配しなければならないのでしょうか。愚かなことです。偏見のあるバイアスのかかった人間中心的な世界観からイルミニストは人類を解放します。
数学は全体として中性的です。全マインドは、宇宙の地球外種族の全ても含めて一つのことに合意できるはずです。すなわち数学です。自身特有の感覚で世界との関連を持つことに彼らは賛同できないでしょう。人間の感覚は地球上の魚類、アリ、その他の生物の感覚とは違います。ですので、絶対的現実を捉える基礎となるのが感覚である、ということは可能でしょうか。どうやって可能となるでしょうか。でも魚類もアリも人間も、数学については合意できるでしょう。数学は種においても中性的なのです。特有の立脚点を優先させることはありません。最も中性的で可能な限り合理的な立脚であるもの、すなわち数学、から絶対的現実を眺めること以上に適切なものはあるでしょうか。
「神の」視点とはなんでしょうか。人間のそれでしょうか、それともそれは数学でしょうか。イルミニストは現実を数学的に見ることをはるかに合理的でロジカルで、客観的で、「マインドと種について中性的」で、独立的で、力強く説得力があるとみなしています。かたや科学的唯物論は人間の感覚を、人間流の考え方を、そして「実」数を本物として「虚」数は非現実的であるとみなし、崇拝しています。(ヒントは名前の中にある!(訳注:???))合理主義者として、実際にはハイパー合理主義しゃとして、こう言うことができるでしょう。つまり、我らは科学的唯物論よりはるかに合理的ななにかを見つけた、と。すなわち「存在論的数学」を。

(以下20-30%略。)
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