2017/01/14

Adam Weishaupt - 神秘主義に傾倒するすべての成員に告ぐ

出典:Adam Weishaupt著「Das Verbesserte System Der Illuminaten」

世界の起源は何か

人類の幸福を希求する者、すなわちその喜びと平和を増大し、不満を減じようとする者は、人類の喜びと平和、人類の幸福をさまたげるすべての元凶を探求し、それを打破しなければならない。打破すべき対象には以下の体系がすべて含まれる。世界と人間本性の改善改良を非難する体系、必要もないのに悪を広める体系、あるいは悪を実際以上にいかがわしいものと喧伝する体系、人間の価値と尊厳を貶める体系、人間が本来有する力への信頼を減少させる体系、そして、まさにそれによって人間を臆病で打ちひしがれ地べたを這いつくばる迷信深い存在となす体系、人間理性を罵る狂言へと道を開き、続いて欺瞞が大手を振ってご入場とあいなる体系。これらの体系をすべて打破しなければならない。

神智学(Theosophy)的すなわち神秘主義的体系、あるいは多かれ少なかれこれに類するもの、神智学に由来するあらゆる原理原則、この由来は往々にして隠蔽されているままだが、結局これらを余すところなく考察するのがこのクラスの課題である。
この種の体系のなんと多いことか。そして今日それらがなんと広く蔓延っていることか。なんと多くの人がこれに感染しているのだろう?人々は修道士の亡霊を放逐しようと努力したが無駄だった。それは他の様々な形姿の下からふたたび立ち上がり、その活動が隠密であればあるほど影響は速やかなのである。人間はすべて全時代を通して次の点で一致する。すなわち人間以外にもおびただしい数の実体が存在し、その総体を人間は世界という枠組みのもとに表現している、のだと。しかし別の考察、さらに自然な、「この世界の起源は何か」という問いにおいては人々の見解は分かれるのである。
ただ二つの解答が是認されうるだろう。すなわち、この世界はそれ自体の現実性を自ら与えるか、あるいはこの世界以外の一つの存在がその世界の創始者であるか、いずれかである。はかない時間の相で、あるいは永遠の相においてながめるのかという点は、この考察にとって同じく重要である。前者は無神論の体系であり、世界の秩序、連関、ハーモニー、すべての存在の目的そして最高のもっとも普遍的な共同体の目的すなわち全存在、とりわけ思考する存在の最終規定、という無神論諸体系であり、この教説にたいていの人々が嫌悪を感じているのは否めない。つまりいつでも無神論とは正反対の、救済を約束し精神に重きを置く理神論少なからぬ残滓が付きまとっていたのだ。

無から有は生じない

しかし、この理神論自体が、まじめに考え神様に満足しない思想家にとっては新たな難題となった。この世界の外側にいる世界の創始者という存在は、そもそもその世界の材料をどこから持ってきたのか?アポリア(解決不能な問題)の迂回路は二つしかない。無から創造したのか、何かあるものからか、いずれかしかない。我々はこのいずれか一方を選ばねばならない。古来すべての文明は、例外なく「無からの創造」を認めていない。古代世界に支配的な教説に従えば、「世界は何かあるものから生成した」のであり、ユダヤの、すなわちモーセの世界創造物語でさえそうである。「無からの創造」の消息が初めてはっきり見て取れるのは『旧約聖書』の「マカバイ記2」(7-28)である(「子よ、天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものを既に在ったものから造られたのではないこと、そして人間も例外ではないということを知っておくれ。」)。「無から無が生成する」という命題は、古典古代すべての体系で排除された帰結から導かれた原則なのである。全古代体系に従えば「世界は(無からではなく)何かあるものから生成した」のである。だとすれば一つの世界ができる前にそもそも何が存在しうる、というのだろう?それでもって世界が生産されるというならば?

さてこの前提に従えば、次の二点しか考えられない。すなわち世界は神から流れ出た、これは後述するいわゆる「流出説」であるが、もうひとつは、神に次いで何らかの物質、素材が存在していなければならず、これを神(性)が加工し秩序を与える、というものだ。この素材はそれぞれの教説ごとに様々で、「力」、「オルペウスの卵」、「カオス」といった姿形のない物質とされていた。この二つの説が他のすべてと共通の根本体系なのだ。すべての体系は、無神論体系を除けば、結局この2点に帰着する。この一方もしくは他方から様々な変形が生じた。最初のものからは、ゾロアスター教の哲学、オリエントの哲学、ユダヤのカバラそしてグノーシス的錯誤とともにピタゴラスープラトン体系の一部分が生じた。この体系の他の部分から生じたものとして、ピタゴラスープラトン学派とその後代の派生態であるアレクサンドリア学派、その他様々な亜流が目を引く。それから現代の神智学や神秘主義者どもも付け加えておく。
ここでこの両体系を吟味しておこう、我々は「古代の賢人たちが、以下の二つの前提から何を論理的帰結として導いたのか」を理解しよう。
前提1 世界は神からの流出物である
前提2 定型のない物質(素材)が永遠の相のもと神と共存している

前提1 流出説

流出説とは何か

もし無から何も生成し得ないならば、必然的に世界は神(性)の流出物である。
⑴ある種構成的存在である神は、その神性の構成物である限りにおいて、身体を持たず、ラフな物質とは区別される。従って古代人のイメージとして神性は、純粋な光の海つまりエーテルであり、そのシンボルは太陽と火である。
⑵この太陽から、また火から、そして光の海から、不断に光が注ぐように、まさに神性からあらゆる力、事物の存在者が生じる。
⑶世界のすべての部分は、それ故、根底的に神の諸部分なのである。
⑷従ってすべての魂、我々の精霊は神から由来し不死である。
① ここから見て取れることは、精霊の不滅説は古くからある教説ではあるが、ここに示されているのはまったくの別物であり、古くからの不滅説は誤った根拠に基づき主張されたものである。
② また、精霊の前世での存在という教説の起源も以下に示すように、精霊のさまざまな身体への転生や親の霊が引き継がれる、精霊の繁殖説から生じたものなのだ。
③ これらの流出がいわゆる輪廻というものなのである。
⑸この「流出」概念には、何がしか不変でない神の部分が含まれる。これは隠蔽されているが到底受け入れることはできない。
⑹あるいは次のように説明されるかもしれない。すなわち、最初の直接流出が本来の神の流出であり、他の諸々の流出はこの第一の流出に続いてさまざまな条件下で流れ出たものである。
 ①それ故、少なからぬ流出説体系、最高神を頂く流出論体系では、世界はこの直接の世界創始者ではなくデミウルゴス等、仲介者によって創造されたとしている。
 ②下位に置かれた流出は従って、神を災厄の根源と見なさぬよう案出されたのである。この世界は災厄に満ちているとしか思えないので。
⑺流出で生じた存在はその根源である最高神から近ければそれだけ完全であり、離れれば離れるほど不完全である。
 ①この命題は全流出説体系、すなわちさまざまな古代の神統記を理解する鍵である。ここからそこにある神々の誕生が理解され、一致する意義を得ることができる。
 ②したがって、この教義からしてある部分、流出物は男性であり、この場合、流出作用を自ら産み出し続け、また流出を受け入れるばかりの場合、それが女性のこともある。
 ③というわけで西欧においてこの体系は大概「天使の交合」という教義になる。
⑻それ故、序列上下位の良い、または邪悪な一連の霊魂が存在し、それらには、種々様々な流出説体系の中でそれぞれ階層や名称が与えられている。
 ①このことは、ゾロアスター教のアムシャ・スプンタ〔アフラ・マズダーに従う7人の善神〕とその下の善神ヤザダ(ヤズド)やパルーシー教〔インドのゾロアスター教〕の悪神ダエーワや下級神フラワシ〔人間を守護する精霊〕の起源であり、プラトンの世界精神(Weltseele)、すなわちデミウルゴスの起源であり、ユダヤ・カバラ神秘主義における最初の人間アダム・カドモンやセフィロト〔カバラの生命の樹を構成する10の流出物〕の、そして天使と悪魔の全階級区分の秩序の起源なのである。
 ②それ故、グノーシス派の神から流出する霊体という夢想とキリスト教との混同が生じた。キリスト教では、その霊体とはキリストであり、魔術師聖シモンが言うところでは、キリスト自身が最高神の直接の流出すなわち第一の流出霊体であると見なされた。福音史家は一致してキリストの神性をこの方向で解釈しており、この見解は上述の起源から導かれたものだ。そして流出霊体の男性的あるいは女性的性質は、その生殖と繁殖とに結びつく。
 ③そしてお互いから生じたカバラの4つの世界が記述される。それは、アツィルト(理念界)、ブリアー(創造界)、イェツィラー(形成界)、アッシャー(物質界)の4つである。
 ④到達困難な隠蔽された最高神に到るには、これら媒介者の性質を持った下位の神々という代願者を介す他ない。
 ⑤これら下位の神々への崇拝はあらゆる呪術の起源なのであり、それは、姿なき者への信仰、この者たちとの親密な交わり、結びつきを希求するものなのだ。
 ⑥さらにカルデア〔新バビロニア〕の信仰では、これは悪霊の力と影響力を説く教説の起源なのだが、これら邪悪な力を静め、自分たちの思うまま操る様々な呪文がある。
⑼物質こそこの神の流出の最下位にあるもので、それ故もっとも不完全で諸悪の根源となるものである。
 ①よって元来、昔の賢者たちに忌み嫌われ、後代のその弟子たちは物質、身体、肉として排した。敬虔な者は身体から解放されようと、つまりこれに拘らぬよう努めた。それは再び神と合一しようという努力、精霊の故郷へ帰還せんとする憧憬である。ここに神秘主義の最初の萌芽がみられる。
 ②同じく以下の教義も同一の起源を持つ。すなわち、身体は精神の牢獄であり、身体ゆえに地上に留め置かれ、神を直覚しこれと合一する、持てる諸力の発達が妨げられているのだ、という教説。
 ③ここに依拠するというのが原初というか古代の節制、禁欲そしてありとあらゆる斎戒、贖罪のたぐい、また瞑想的人生や孤独を求める傾向、すなわち君主主義の遥かな起源、同時にあらゆる言い回しを含めてキリスト教神学的禁欲なのである。結婚すなわち子供をつくることの否定、腸管性交の傾向等。さらに世俗を無視あるいは軽蔑すること、こういった事どもはすべて後に新旧プラトン主義によって強化されていった。

流出説への疑問

流出論体系の帰結は、ここで説明したように当初ただちに出来したのではないが、おおむね論理的に妥当な帰結である。流出説は初期だろうと後期だろうといつでもこの帰結に至るのは必然だからである。これらの帰結の中に若干、誤って導かれたものが含まれる。どういったものかというと、誤ったあるいは恣意的な流出原則を前提とし、そこから導き出された帰結である。それ故、この歴史が示すものは、最高の教義も原初において同一でなく、最高の根拠から必然的に擁護されるものでもない、ということである。だからこの流出概念の無底が明らかになるやそこに依拠していたすべてが崩壊する。よってこういった流出論体系は偽である。

⑴というのも、こういった理論は、恣意的に措定された命題に依拠しているからである。根拠はまったく明らかにされず、疑義は増すばかり。さらにこれらは、だれも解答し得ない問題にイメージが先行し、寓意的に解答を与えているのである。これはヨーロッパの構想力が生み出したむなしい遊戯といえるだろう、世界の始まりという詩、つまり人間の概念や経験を超越したものをまるで説明できないよりはマシと、夢を通して説明しようと努める人間のプライドの表れなのだ。
⑵「一つの単純な事物から何かあるものが流出する」という原理が神に人格を与えるのか、あるいは、神を構成するのか?またこの流出理論はいかにして可能となるのか?しかし神は人格を持ち得ない。そのいくつかの根拠を以下に示すが、その根拠は我々の精神の物質性に対しても援用できるが、若干の変更が加えられている。
 ①すべての部分をあまねく神性が形成しているならば、神はいったいどこに存在するというのか?個々の部分のどこにも存在しないのか?さらに個々の部分は不完全である。なぜなら各々の部分は全体ではないから。全部とはその部分以外の諸部分のことであるが。どんな主体の中に、では共同体としての全体が存在するのか?主体は諸部分の全体にあるのではないのだから。
 ②すべての部分がひとまとめにされて神を形成するのではないとするなら、神の個々の部分が存在することになり、同一物のこの永劫回帰は何のためか?差異性のないところで多様性はどこから得られるのか?個々の諸部分がすでに神という全体の部分だとするなら、少なからぬ部分が存在するのは何故か?個々の部分が存在する能力があるから少なからぬ存在者が当然存在するということになるのだろうか?
 ③この材料である神の極一部分のみが神々だというならば、神々ではない諸部分が神の中にあるのはどういうことか?
⑶自分の流出に先立ち流出している諸部分など、本当に神の部分といえるや否や?神の部分でないならば、神ではない何物がいかにして神の中に存在しうるのか?またこの部分は、真性の神の部分であるというなら、問題はさらに錯綜し、解が与えられるとは到底思えない。そこで新たな問いが立てられる。すなわち、流出が生じた後、この神の一部である諸部分はなお存続するのか、または部分である存在を停止するのか?消失するとしたならば、神の一部分がどうやって、何を言ってるのか理解しがたいのだが、神であることを停止することができるというのか?さらにこの部分が存続するとすれば、この主張は世に知られたスピノザ主義、あるいは汎神論のものである。お互い区別されるが同じジャンルである。
⑷それでもなお流出論体系が存在するべきだとするなら、この種の主張の多くがそうであるように、それは即、還流論体系となる。そこでは、還流の作用によって流出してできた諸部分が、いつかは定かでない時の経過の後、神と再び合一する、とされる。そして本質(神性)の個別性や人格、したがって本来有していた不死性が失われることとなった。
⑸流出説によれば、物質は最悪、不完全だとされ、それ故、神から流れ出て尽きる。とはいえ、物質は最初の神からの流出物でもある。まさにこの物質は、すべてのこうした流出物の最底辺である、という理由から他の物質以外の流出物は、物質があってその後にやっっと生じたのである。こういった流出説の堕落の原因はどこにあるか、それはここまで引用してきた原理以降の懸隔にあるのだ。これら流出論諸説は流出理論の根本原理から遠く隔たったものなのである。
しかし不変性という神の特性を変更させた懸隔とは何だろう?

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翻訳:芳賀和敏



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