2017/02/06

本の紹介 - プロクロス『神学綱要』

『世界の名著15 プロティノス ポルピュリオス プロクロス』(中央公論社刊)


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プロクロスの「神学綱要」の目次:

第1章 一と多
第2章 原因
第3章 存在の諸段階
第4章 発出と帰還
第5章 自立的なもの
第6章 永遠と時間
第7章 いろいろな原因について
第8章 全体と部分
第9章 原因と結果
第10章 存在、限、無限
第11章 種々の原因に関する補足的考察、その他
第12章 神的な単一者(ヘナデス)すなわち神々
第13章 知性
第14章 魂

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ブログ主による評価:

書店のコーナーに設けられている『精神世界』というジャンルは主に自己啓発や宇宙人・アセンションといったテーマを扱う。内容は美辞麗句で飾られ、もてはやされている。いわゆるニューエージ思想は、世界が抱える問題とその解決については目もくれず、代わりに新時代の素敵さ、素晴らしさを大言壮語するだけのもの。そして、決まって無内容な精神論に終始している。

これらの書物は魂や霊の糧にはなり得ない。

上に示した目次にも見られるように、新プラトン学派が提供する数少ない文献の方がはるかに魂に資するものであると深く確信している。そこで本稿では『神学綱要』の第1章「一と多」に相当する箇所をここに引用し、読者への指針としたい。なお、同書には訳注が複数付いているのだが、引用に際してはいずれも割愛した。

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*****以下引用*****

命題 一 「<多>はすべて、なんらかの仕方で、<一>を分有する。」

証明 もし<多>がどんな仕方によっても<一>を分有することがないとすれば、<多>の全体も<多>を構成する多くの部分のそれぞれも、ともに<一>ではなく、諸部分のそれぞれがまた<多>でもあることになるだろう。そして、そのことが無限に進行していって、そこにあらわれた<無限なもの>の各部分がまた無限の<多>でもあることになるだろう。なぜなら、全体としても、そのうちにある個別的な部分としても、決して<一>を分有することのない<多>は、そのどの点をとってみても、まったく<無限なもの>だからである。
 つまり、多様なものの各部分は、そのどれをとってみても、一であるか一でないかのいずれかでなければならないのである。そこで、もし<一>でないとすると、<多>であるか<無>であるかのいずれかであることになる。しかし、各部分が<無>であれば、それらから成り立つ全体も<無>であることになる。他方、もし各部分が<多>であれば、それは<無限なもの>が無限に集まってできていることになる。しかしこれらはいずれも不可能なことである。なぜなら、<無限なもの>の無限の集合によって成り立つ存在などというものはないし ---というのは<無限なもの>より大きいものはないのに、(この場合は)各部分の全体から成るものが(<無限なもの>としての)各部分より大きいことになるが---<無限なもの>が集まって特定の或るものとなることも不可能だからである。
 したがって、<多>はすべて、なんらかの仕方で<一>を分有していることになる。

命題 二 「<一を分有するもの>はすべて、一であるとともに一ではない。」

証明 もし<一を分有するもの>が一そのものではないとすれば---というのは、<一を分有するもの>は<一>以外のものだからであるが---それは<一>を分有することによってその影響(=限定)を受け、一になることができたのだということになる。
 そこで、もしそれが<一>以外の何ものでもないとすると、それは純粋な一であることになる。つまり、それは<一>を分有するのではなくて、一そのものであることになるのである。しかし他方、もしそれが<一>以外のもので<一>ではないとすると、要するにその点で、それは一でもなければ一そのものでもないことになるだろう。
 だが、それは一であるとともに<一を分有しているもの>でもあるのである。だから、それはそれ自体で一として存在しているのではない。したがって、それは一であるとともに一ではないのである。なぜなら、それは<一>以外の何らかのものだからである。すなわち、それには何らかのものがつけ加えられているのだから一ではないが、<一>によって影響(=限定)を受けているのだから一なのである。
 したがって、すべて<一を分有しているもの>は、一であるとともに一でないことになる。

命題 三 「<一となるもの>はすべて、<一>を分有することによって一となる。」

証明 <一となるもの>は、それ自体は一ではなく、<一>の分有を受け入れている限りにおいて一なのである。つまり、それ自体では一でないものが一になる場合、それらは明らかに、たがいに集まり協同関係を持つことによって一となるのであって、純粋な一ではないが、<一>の臨在に従うことになるのである。したがって、それらは(<一>の)影響を受けて<一なるもの>になるという意味で、<一>を分有しているのである。つまり、それらがすでに一であれば、一になることはないわけだし---というのは、存在しているものがすでに存在しているものになることはないからだが---以前は一ではなかったのに、一になるのであれば、それらの中に或る種の一が生じることによって<一>を得るのでなければならないのである。

命題 四 「<一になったもの>はすべて、一そのものとは異なるものである。」

証明 もし一そのものが一になったのであれば、それは何らかの点で、すなわち、まさに一になったといわれるその点で、<一>を分有していることになるだろう(命題 三)。ところが、<一>を分有しているものは、一であるとともに一でないのである(命題 二)。しかし、一そのものは<一であるとともに一でないもの>ではない。というのは、もし一そのものが<一であるとともに一でないもの>であれば、その中にある<一なるもの>もまた一であるとともに一でないことになって、この関係が無限に進行していくからである。なぜなら、この場合には、無限進行をくいとめる一そのものがなく、そこにあるのはすべて、一であるとともに一でないものだからである。
 したがって、<一になったもの>は、<一>とは異なるものであることになる。なぜなら、<一>が<一になったもの>と同じであれば、<一>は無限の多であることになるだろうし、また<一になったもの>の構成要素としての各部分も、同様に無限の多であることになるからである。

命題 五 「多はすべて、<一>より後なるものである。」

証明 もし<多>が<一>に先立つならば、<一>は<多>を分有するが、<多>は<一>に先立つものとして、<一>が生じる前に<多>として存在しているいじょう、<一>を分有することはないであろう。なぜなら、まだ存在していないものを分有することはないからである。それにまた、<一を分有するもの>は一であるとともに一でないが(命題 二)、はじめにあるものが多であれば、一はまだ存在していないことになるからでもある。しかしながら、いかなる点においても一を分有していない多というものがあるということは、不可能である(命題 二)。したがって、<多>が<一>に先立つことはないということになる。
 次に<多>が<一>と同時に存在し、同格的な存在として、本性上たがいに対をなしていると考えてみよう---というのは、時間的な問題としては、このように考えても、なんら支障はないからである---この場合には、<一>それ自体は多ではなく、<多>も一ではないことになる。両者の間に前後の関係が成立しないいじょう、両者は本性上たがいに対立するものとして、同時に存在しているのである。すると、<多>それ自体は一でないことになり、その各部分も一でないことになって、これが無限に進行していくことになるが、これは不可能なことである(命題 一)。したがって、<多>は自らの本性にしたがって<一>を分有するのであって、そのいかなる部分も、これを一ならざるものとして捉えることはできないということになる。なぜなら、すでに示されたように、もし一でないとすれば、それは無限の部分からなる無限なものであることになってしまうからである。したがって、<多>はあらゆる点で<一>を分有していることになる。
 このようにして、<一>はそれ自体で一なるものであるから、決して他を分有することがないとすれば、<多>はあらゆる点で<一>より後のものであることになるだろう。<多>は<一>を分有するけれども、<一>によって分有されることはないからである。
 しかし他方、<一>も<多>を分有するのであって実体(ヒパルクシス)の面からみれば、一として存在しているけれども、分有の面からみれば、一ではないとすると、<多>が<一>によって一となったように、<一>は(<多>によって)多となっていることになるだろう。したがって、この場合には、<一>は<多>と共同し、<多>は<一>と共同していることになる。だが、何らかの仕方でたがいに集まり共同しているものがあるとしても、もしそれらとは別の第三のものがその集合の原理になっているとすれば、その第三の原理がそれらに先立って存在していることになるし、もしそれらが(別の第三の原理に頼らず)自分たちで自分たちを集めて一緒にしているのだとすれば、それらはたがいに対立しているのではないことになる。なぜなら、対立しているものは、たがいに一方が他方に向かうことはないからである。そこで、もし<一>と<多>がたがいに対立していて、<多>は多であるかぎり一ではなく、<一>は一であるかぎり多ではないとすれば、<一>も<多>もともに相手方の中に生じることはないのであるから、両者は(分有関係では)一であるとともに(実体の面では)二であることになるだろう。しかし、両者に先立つものがあって、それが両者を集めて一緒にしているのだとすると、それは、一であるか一でないかのいずれかであることになる。そこで、もし<一>でないとすれば、<多>であるか<無>であるかのいずれかであることになる。しかし<多>ではありえない。そうでなければ、<一>より先に<多>があることになってしまうからである。だが<無>でもありえない。<無>がどうして(<一>と<多>を)集め、一緒にするはずがあろうか。したがって、<一>はただ一であるだけということになる。というのも、たしかに、無限進行を避けるためには、この<一>は多であってはならないからである。したがって、この<一>は一そのものであり、<多>はすべて、この<一そのもの>から生じるということになる。

命題 六 「<多>はすべて、<一となったもの>から成るか、あるいは<単一なもの(ヘナデス)>から成る。」

証明 <多>の各部分がそれ自体でまた純粋の多であったり、この<多>を構成する各部分がさらにまた多であったりすることはない。これは明らかである(命題 一)。だが、純粋の多でないとすれば、それは<一となったもの>か、もともと<単一なもの>かのいずれかである。そして、もしそれが<一を分有するもの>であれば<一となったもの>であるし、最初に一となったものの構成要素であれば<単一なもの>である。というのも、一そのものがあれば、その一そのものを最初に分有して最初に一となったものがあるからである。そしてこの最初に一となったものは、<単一なもの>から成り立っているのである。なぜなら、もしそれが<一となったもの>から成り立っているのであれば、その<一となったもの>がさらにまた或るものから成り立っていることになり、この関係が無限に進行していくからである。
 だから、最初に一となったものは<単一なもの>から成り立っているのでなければならないことになる。つまり、われわれが初めに提出した命題は正しいということになるのである。

*****以上引用迄*****

ブログ主による評価:

一から多が生じる、という命題は流出説と呼ばれる。新プラトン学派は流出説の立場を取っている。流出説の起源は古代オリエントに見られ、最古にして最も普遍的な体系である。アダム・ヴァイスハウプトはその著書"Das Verbesserte System der Illuminaten"の中で流出説に言及し分析している。流出説への疑問や批判も彼は同書で提起している。だが総評としてはニュートラルな立場を取っている。それについての紹介は以前記事にした。
→ Adam Weishaupt - 神秘主義に傾倒するすべての成員に告ぐ

いずれ完全版として該当する箇所を翻訳し、あるいはすでに翻訳されたものを引用して、当ブログにアップロードする予定である。

さて、一と多、そして無限の概念についてだが、1980年代初頭に登場したかの有名なチャネリング本「一なるものの法則」(「ラー文書」とも呼ばれる)で、そのチャネル主として知られる金星の惑星意識存在(つまり6Dの存在)「ラー」によれば、万物の起源は「知的な無限」ないし「無限の知性」であると述べている。詳細は「一なるものの法則」第1巻を読んでほしい。上に紹介引用した内容と食い違う前提を私たちは確認できるわけだが、事実関係・真実はどちらなのか、それは分からない。ただ、新プラトン学派について言えば、今からおよそ2000年前の時分にすでにこうしたテーマ(始源についてetc.)を考えていた・哲学していた一連の集団がいたというのは瞠目に値するのではないだろうか。現代社会は哲学的に、知的に、当時のインテリの知性から大きく後退・劣化しているのかもしれない。










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